平塚為広陣

付近住所 岐阜県不破郡関ヶ原町藤下


 合戦当時垂井城主(1万2千石)だった為広は、吉隆(吉継)と親しかったため、大谷隊に加わっていました。
 平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦振りは目覚しかったが、脇坂らの背反が加わり、味方の壊滅を見極めた為広は、辞世の句を打ち取った首に添えて吉隆に届けさせると、藤川台の露と消えました。
 それを碑裏に留めたのは子孫定二郎です。